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マヤの龍神ククルカン*ドラゴン&翡翠*龍の組紐ブレスレット

¥9,800 税込

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かつてマヤ文明やアステカ文明といった、高度な文明が発展していったことで知られるメソアメリカの地に伝わる神『ククルカン』をイメージした龍のブレスレットです。

このメソアメリカの地にも、どうやら龍神が存在していたようです。


皆さんは『龍』と聞くと、どのような印象を想い浮かべますか?入れ墨や和柄、中国っぽい、漫画やゲームといったファンタジー世界に登場するキャラクターなど、龍に対するイメージは人それぞれ異なるでしょう。

またその龍をよく見てみると色も様々です。青龍、赤龍、金龍、白龍、黒龍など、色々という言葉通りカラフルに存在している事が分かります。

龍が色を身に纏っているのは何かしら意味があるようです。例えば黒龍の場合その真っ暗闇のような黒色が示すのか、黒龍は光が苦手で普段は陽の光の指すことのない暗い海底に身を潜ませており、月の光さえ指すことのない新月の夜になると海上に姿を現すという伝承が残されています。対して反対色である白色は見る者に神聖さを想い起こすことからか、この色を纏う白龍は天上界に住まう天帝という至高神に仕える聖なる龍と伝えられています。龍にまつわる話を聞いてみるとどうやら龍にはそれぞれ性格や特徴があるようで、それも自身が身に纏う色がもつイメージが反映されているようです。

この「色」についてですが、色には心身に及ぼす力があることが分かっています。例えば赤色の服を着ると体温が上昇するというデータがあります。またその時選ぶ色で心理状態が分かるともされ、赤色を選んだ時はエネルギッシュな状態であれば活力を欲しているときでもあるそうです。

龍にとって身に纏う色というのは人間に置き換えてみれば衣服のような一面があるのでしょうか。その色を纏うことで色に沿った効果が龍の心に影響を与えているのか、もしくは龍のその時の心の状態が体の色で表されているのかもしれませんね。

そんな色とりどりな龍たちですが「そもそも龍とは一体何なのか」。疑問に想ったので調べてみたのですが、龍は神社では「龍神」として祀られていることもあれば仏教では龍は仏法を守護する「龍王」としても存在しており、運気の向上を図る風水では大地を走り家屋に流れ込む良い「気」を龍と言います。中国では龍は「天子(皇帝)の象徴」であり、歴代の皇帝は龍と例えられていました。

こうして見てみると龍は様々な場所で姿を見せてはそれぞれ異なる役割を持っているため、龍が何たる存在なのか謎は深まるばかりです。

けれど龍について調べていて想ったのですが、龍とは一体どんな存在なのかと問われると「龍は水である」と答えることが出来るかもしれません。龍はそもそも『水の力を司る水神』とされていて、いにしえの時代では干ばつが発生すると人々は雨水を求めて龍に雨乞いを行っていたそうです。龍と水との関係から龍のようにうねる川や轟々と流れ落ちる滝を龍と表現したり、川や湖など水がある場所に龍神が祀られていたりします。

龍が龍神、仏教では龍王、風水では気、時に皇帝の象徴など様々な場所で異なる姿を現すのは、水がコップという器の形に沿って形状を変えることと似ているからなのかもしれません。そして龍が水ゆえに「龍とはこういう存在だ」という考え方も人それぞれ異なるでしょう。水が注がれる器の形に沿って形状を変えるように龍という存在に対する捉え方も、人それぞれ異なる形をもつ心という器の形に沿って変化するのかもしれない…と考えられるからです。

現代では龍に雨を求めて雨乞いを行うことは無くなりましたが、よく考えてみれば人は何かしら叶えたい事があると龍神が祀られている神社へ参拝して願をかけたり、運気を良くしようと想って風水を試し、龍という気を家屋の中に招き入れようともしています。

時代が変わっても人が龍を見つめることは変わらないようです。かつて雨が降ってほしいという形なき願いが雨という形となってこの世に現れたように、胸の内に秘めていた未だ形を伴うことのない願いが、雨が降るかのごとく眼の前に現れて現実のものとなって欲しいと…。

龍に願いを託すことは、現代における雨乞いであるのかもしれません。

かつて雨乞いは龍を自身のシンボルとしていた皇帝が執り行っていたそうで、皇帝は農作物と天候の吉凶に対して責任を負う「雨帝」でした。ピラミッド型権力構造の頂点に君臨する「皇帝」。皇帝を聞くと遠い存在に感じますが、むしろ現代社会では人は誰しもが皇帝になれるのかもしれません。会社や企業、組織においてトップの存在となれば、組織という国に利益という雨をもたらそうと奮起するものですから…。トップの人が龍神が祀られている神社へ赴く姿は、なんだか龍神に雨を求めて雨乞いをする皇帝のように見えます。

【龍と暦】
様々な場所で姿を見せる龍は私達の生活を動かす「暦」の中でも息づいているようです。

伝承によると「龍は3月21日頃の春分の日になると天に飛翔し、9月22日頃の秋分の日になると地上へ降り立ち淵に身を隠す」と言われています。なぜこの日に昇り降りするのか考えてみたのですが、これはもしかすると「農作物の成長サイクル」が関係しているのかもしれません。3月の春分から9月の秋分あたりまでは農作物の種を蒔いて成長させ、実りを刈り取ることが出来る期間と重なっています。日本人とともに長年歩んできたお米もおよそこの期間内に実って収穫することができます。

またもう一つ考えられそうなのが「蛇の活動サイクル」です。これもまた伝承によれば、「龍は蛇が何百年もの年を経ることで龍になる」と言われています。そのため龍の原型とも言えそうである蛇ですが、種類によっては蛇は10月頃になると冬眠するために土の中に潜り、3月の春頃になると地上に姿を現して活動し始めるのだそうです。蛇の活動サイクルが春分と秋分の日と近いことを考えてみれば、龍が昇り降りする理由の一つに蛇の行動時期も反映されているのかもしれません。

そして暦を一年と全体的に見てみたら春分と秋分の日のみならず、龍はより深く暦の中に息づいていることが分かりました。

3月3日、女の子の健やかな成長を願う「桃の節句」。この行事はそもそも「古い皮を脱ぎ捨てて新しく生まれ変わる蛇の脱皮にちなんだ健康祈願の行事」であったらしく、旧暦で巳(み、ヘビ)の日に行われていたそうです。

桃の節句を過ぎて春分の日に龍が天に昇ると今度は5月5日の「端午の節句」。この日は男の子の成長と立身出世を願う行事ですが、この端午の節句も元は菖蒲の花を用いた健康祈願の行事でした。時代が下るにつれて「菖蒲(しょうぶ)」が武道を重んじる「尚武(しょうぶ)」へと繋がって次第に男の子の行事へと変わっていったそうです。

この時期が近づくと鯉のぼりが掲げられるようになりますが、これは中国にある言い伝え…「黄河の中にある龍門と呼ばれる、流れの激しい場所を登りきることが出来た鯉は龍になる」という鯉の滝登り伝説が由来となっています。蛇が龍になる話があれば、鯉が龍になることもあるようです。

5月5日の険しい龍門と暑い夏を通り過ぎ、9月の秋分の日に龍が地上へ帰還すると今度は冬目前となる「11月」。この月は和名では霜月と呼ばれているのが一般的ですが呼称は他にもいくつか存在しており、中でも11月には『竜潜月』という呼び名もあります。

この竜潜という言葉ですがここでは龍を「優れた人や英雄」に例えており、その龍のような人が潜んでいる状態…すなわち龍潜とは『龍のような優れた人や英雄が世の中に現れて活躍することなく、潜んでいるかのように過ごしている』という意味です。龍は9月の秋分の日に降りてくるため、月日の流れで行って11月は龍が潜む(眠る)月と言われるのは納得がいくでしょう。またこの竜潜という言葉ですが、龍が皇帝を象徴するものでもあるため「天子(皇帝)が即位する前」という意味もあります。

3月の春に蛇が冬眠から目覚め、春分の日になると脱皮して龍に生まれ変わって天へ飛翔し、5月には鯉が自分も龍へと生まれ変わりたいと果敢に龍門に挑み、9月の秋分の日に地上降り立つと11月は再び天に飛び立つ春の時を待つように深い眠りにつく。そして春が訪れると眠りから目覚めた蛇が古い皮を脱ぎ捨てて龍へと生まれ変わり、大空へと旅立つ…。

一年の流れを見ていたらそれはまるで春に一匹の蛇が誕生し、龍へと進化すると天に登り、秋に地上に戻ってくると淵に潜って眠るというある種の死を迎え、春になると蛇となって再び蘇り龍になって天に飛翔する…という死と再生を脱皮の如く繰り返しているように見えました。

農作物の成長と収穫の時期は移ろいゆく季節と時間によって動かされるため、農耕と暦は密接に関わり合っています。太陽の光と同じく水も食物の成長に必要不可欠であるため、水の力を司る龍も暦の中に存在するようになったのかもしれませんね。どうやら龍は「大自然の一部」でもあるようです。

さらにいえば、もしかすると龍は大自然の一部どころか「この世界そのもの」でもあるのかもしれません。時と季節が移ろい繰り返されるのはこの世界が龍で出来ていて、その龍が脱皮を繰り返すから季節の循環が絶えず行われているのでしょうか。私達は巨大な龍の中で生きているのかもしれませんね。


洋の東西を問わず世界中に龍やドラゴンの伝説は遺されています。日本を含めアジア全体で知られている現在の龍のその姿は中国から来ています。場所が変わって現在のメキシコやグアテマラ、ベリーズ周辺。この地域はかつてマヤ文明に代表される高度な古代文明が栄えたことで知られており、ここら一帯は総称してメソアメリカと呼びます。世界中の龍やドラゴンを調べていたらこのメソアメリカの地でも龍神らしき者を見つけました。

【蛇神ククルカン】
『ククルカン』とはかつてマヤ文明やアステカ文明、トルテカ文明など様々な文明が栄えては滅んでいった歴史をもつメソアメリカ中にて崇拝されていた神で、その名は「羽毛の生えた蛇」という意味をもつ蛇神と伝えられています。マヤ文明ではククルカンと呼ばれ、他の地域及び文明では農耕や文化、風、水を司る神ケツァルコアトルと同一視されてケツァルコアトルとも呼ばれていました。個人的にククルカンと呼ぶ方が好みなので、ここでの呼び方はククルカンで統一することにします。

ククルカンという蛇神がどのような存在なのか、まつわる話は地域や年代によって異なっています。トルテカ文明における神話によると、ここメソアメリカ地域ではかつて人を生贄とする人身御供が盛んに行われていたのですが、ククルカンはこの生贄を辞めさせたと伝えられています。けれど人々が生贄を行うことを好んでいた他の神々から恨みを買い、騙されて失墜してしまいました。この時ククルカンは「1の葦の日に帰ってくる」と告げて遠くの地へ去っていったとも、逃げて金星になったとも言われています。

また、自ら火を起こして燃える炎の中に体を投げ込んで命を絶ったとも伝えられています。この時燃えた体の灰から「ケツァール」という美しい羽色をもつ鳥が誕生したという伝説があり、以来ケツァールはククルカンの化身とも遣いともされてきました。

ユカタン半島北部で栄えたマヤ文明における神話では、ククルカンは他の神々と共同して人類を創造した創造神ともされています。このユカタン半島北部にはチチェン・イツァーという遺跡があり、ここにはククルカンを祀った「ククルカンの神殿」と言われるピラミッドが遺されています。このピラミッドですが当時の人々の暦と天体の観測力が高度で正確だった事が分かる驚くべき代物です。というのもピラミッドは四面に階段があるのですが、この四面すべての階段の数と最上段を足すと365段になり、暦の数と同じ数になります。

そして階段の横の縁の一番下にはククルカンの顔の彫刻があり、顔から最上段にむかって縁に沿って胴体が伸びているデザインになっているのですが、年に2回「春分と秋分の日」になると太陽光が指す角度の影響で階段の横にククルカンの胴体を現す影が出現する「ククルカンの降臨」と呼ばれる現象がおきます。

龍の原型でもある蛇の姿をもち龍が昇り降りする日である春分と秋分の日に現れることから考えると、もしかするとククルカンは龍神なのかもしれませんね。春と秋のこの日になると、ククルカンが昇り降りする瞬間を一目見ようと世界中から人々がこの地に集まります。雨が降っていたり曇で太陽の光が遮られているとこの現象を見ることができなくなってしまいます。いにしえの時代にて人々は龍に雨を望んでいましたが、龍神のククルカンが現れるこの地にてこの日ばかりは雨が降らないことを人々は願っているようです。

このチチェン・イツァーに住み、ククルカンの神殿を立てたのは地名の一部と同じ名をもつ「イツァー人」と呼ばれた人々なのだそうですが、このイツァーという民族名はマヤ語で「魔法使い」や「シャーマン(霊媒師)」に相当する単語から来ているとする説があり、地名のチチェン・イツァーという名前も『聖なる泉のほとりの、水の魔法使い』という意味があるそうです。マヤ文明が存在していたユカタン半島には聖なる泉と呼ばれる「セノーテ」という井戸が多数存在していて、人々の基調な水源となっていました。このセノーテはククルカンが降り立つチチェン・イツァーにも存在しています。冒頭において川や湖など水がある場所に龍神が祀られていると語りましたが、このマヤの地でもククルカンという龍神の側に水が存在していることが確認できます。

龍も姿を見せる漫画やゲームといった創作の世界において魔法使いがドラゴンを召喚する様子が見られますが、魔法使いの名をもつイツァー人もククルカンという龍神をこの世に召喚するかのように呼び寄せることが出来たようです。


ククルカンの化身とも遣いともされる鳥のケツァールですが、一説によるとケツァールは中国に伝わる伝説の鳥『鳳凰』のモデルになった鳥とも考えられています。鳳凰は徳のある人が生まれた時や優れた治世が行われていて世の中が平和な時に姿を現すとされ、赤、青、黄、白、黒の五色の色彩をもち、体は各部位がそれぞれニワトリやツバメ、ヘビやカメ、魚に似ているとされる霊長です。頸に「徳」、翼には「義」、背には「礼」、胸には「仁」、腹には「信」の紋をもつとされています。

マヤの神話にてククルカンは人類を作り出しましたが、中国では「すべての動物は龍から生まれた」といわれており、動物のルーツをたどると龍にたどり着くと言われています。鳳凰も、まず龍が飛龍という龍の子供を生み、この飛龍から鳳凰が誕生し、鳳凰からは鷹が誕生し、そして鷹は羽をもつ全ての鳥を生んだと考えられいて、鳳凰も元を辿ると龍を祖先としている事が分かります。

巨大な龍という世界の中で生きる私達人類もやはりマヤの神話通り、龍から生み出され生まれてきているのでしょうか。人類のルーツも遡ってみると龍へと辿り着くのかもしれません。

龍から鳳凰が誕生しているように、ククルカンも鳳凰のモデルと噂される鳥のケツァールを生み出した…。そして中国の龍とククルカンは似ていて、中国の鳳凰とメソアメリカのケツァールとの間に関係性が見られる…。アジアで伝わる中国的な姿の龍が、遠く離れたマヤの地に住むククルカンと似ているのはなんとも不思議な話です。

どうして似ているのか、その真相は謎ですがもしかすると暦と天文学に対して鋭い観察力をもっていたゆえに、イツァー人は暦の中に龍が存在していることを発見したのかもしれませんね。ククルカンの神殿は正確な暦と方角を計算されて作られていることから、このピラミッド自体がいわばカレンダーのようになっています。

ククルカンにまつわる伝説を見てみるとククルカンは【龍神】であり【鳳凰】とも関係があるのかもしれません。また蛇の脱皮のように死と再生を繰り返していること、一の葦の日に帰ってくる…と「復活」することを告げたこと、そして火の中に突っ込んで燃えて灰から鳥のケツァールが誕生した話を聞くと、ククルカンは「寿命が訪れると自ら火を起こして飛び込み、息絶えた後に灰の中から再び蘇るとされる西洋の伝説の鳥【不死鳥フェニックス】」にも似ているような気がします。


ククルカンを降臨させたイツァー人に倣って私もククルカンを再現。ブレスレットにしてみました。

日本の伝統工芸の一つである「組紐」の技術を用いて作成。龍の頭の形をした金具を組紐に取り付けており、全体が龍になるように仕上げました。一本の紐状になっており手首に2重に巻き付けてご使用いただく2連タイプのブレスレットです。羽毛の生えた蛇…ということで、ふわふわ感を出すためにコットン素材の糸で組紐を組んでみました。組紐の模様はククルカンの化身である鳥のケツァールをイメージしています。ケツァールを意識した配色ですが、金具の金色と黒い目、緑、青、白、赤の鱗で鳳凰のような色彩となりました。

そしてククルカンには天然石の『翡翠』を咥えさせてみました。

【翡翠】…8ミリ
5月の誕生石
石言葉…長寿、避邪、権威の象徴、繁栄、幸福、

翡翠のキーワード…
・生まれ変わる
・聖なる力を授かる
・心を育む
・神霊を心で感じ取る
・召命を受ける


柔らかい白緑色をもつ天然石の『翡翠』。翡翠は鯉が龍になろうと龍門を目指す時期でもある5月の誕生石です。

翡翠は世界中で愛され古くから用いられてきた歴史のある石です。ククルカンが存在していたメソアメリカにおいても金銀よりも翡翠が一番高価で重宝されていました。ククルカンが降り立つピラミッドの近くにあるセノーテでもククルカンの姿が彫られた翡翠のレリーフが発見されています。

翡翠は洋の東西関わらず人気がありますが、特にアジアで人気が高く不老不死や富貴を象徴する石でした。中国でも翡翠は「玉(ぎょく)」と呼ばれて高価なものであり「仁・義・礼・智・信」の五徳を高めるとされて時の権力者に好まれていました。

ただしちょっと野暮なことを言ってしまいますが、実は中国では翡翠は産出されません。「ネフライト」という翡翠によく似た石が存在しており、中国ではこのネフライトを翡翠と呼んでいました。そっくりな石ですが鉱物学においては翡翠とネフライトは異なる石です。この翡翠ですが日本で採ることができます。縄文時代の遺跡から翡翠が出土されているため日本でも古くから用いられてきた事が分かっています。そして翡翠は日本の国石としても指定されています。

いにしえの時代にて翡翠には霊力があると信じられていて、巫女やシャーマンといった呪術的な物事を行う人が儀式や祭事にて用いていたそうです。病を治す力があるとも信じられていたのか、治療に使われることもあったようです。

不老不死を象徴するとされてきたように翡翠は「復活と再生」の力をもつと考えられていました。マヤ文明における遺跡の中からマヤの歴代の王の一人の墓が見つかっているのですが、その王は大量の翡翠と共に埋葬されていて翡翠の仮面を被り、口の中にも翡翠が詰められ、指一本一本にも翡翠の指輪がはめられその手の中にも翡翠が握られていました。

翡翠がなぜ復活と再生の力をもち、亡き人と共に埋葬されるようになったのか。それは翡翠がもつ「色」に答えがあるのかもしれません。天然石は何かしら力を秘めているとよく噂されますが、天然石にまつわる力の由来を紐解いてみるどうやらそれは龍の特徴が体の色で表わされるように、天然石も自身が身に纏う色がもたらす色彩効果が反映されていることがあります。

翡翠が纏う緑色は「植物」の色。朽ち果てても時が訪れると再び土の中から姿を現す様子から緑色は「生命力や永遠性」を意味する色です。砂漠が広がるエジプトでは緑色は病を治す色と信じられ「再生するにあたって必要な色」とされていました。植物の常緑樹は冬でも緑色を保つことから緑色は「不変、不死」を意味するようになりました。日本でも緑色をもつ植物の榊に「聖なる力が宿る」と考えられ、「神霊が降りる依代」となって神が降臨する場所と考えられてきました。

翡翠が死者の再生のシンボルとなったり時に治療に用いられたのも、植物と緑色がもつ生命力と復活性によるものなのでしょう。また緑色をシンボルカラーとする植物は育っていく様子から「成長」を感じさせる色でもあると想います。英語でも緑色を意味するグリーンは成長を意味する言葉の「growth」が語源となっています。

この緑色を纏う翡翠を見つめていて色々と想ったことがあります。亡き人の復活を願って共に眠りについていた歴史をもつ翡翠は植物が成長しては朽ちて、また再び蘇るように、持ち主を「新しく生まれ変わらせる」ような気がします。ここで言う生まれ変わるとは、新しいやり方を取り入れて生まれ変わるといった感じです。翡翠に触れていると普段と違うことに目を向けるようになったり、違うやり方を行ってみたりなどするようになるかもしれません。無理に違うことをするのではなく、自然と自ら「生まれ変わらなければ」と感じ取るようになるようです。次第に持ち主を脱皮させて生まれ変わらせ、復活させていくのでしょう。

翡翠が霊力を宿す理由も緑色にありそうです。榊に聖なる力が宿り神霊が降りる場所と伝わるように、翡翠も神霊が降りる宿り木となっているから霊力を保持しているのかもしれません。榊に霊が降りる理由にもう一つ、尖っているからともいわれます。神道では尖った枝先をもつ植物には神霊が降りるとも考えられていたそうです。ピラミッドという頂点が尖ったものにククルカンが降臨した事を考えてみると、チチェン・イツァーの神殿ピラミッドはククルカンという龍神を降臨させるための依代となっているのかもしれませんね。

翡翠は、水の力を司る龍が自身のその力を乾きで苦しむ人々のために行使したように、自分の力を困っている人に使うべしと考えているのかもしれません。聖なる力を天から受け取っている翡翠は持ち主にその霊力をさずけそうです。翡翠が自分の力を周囲のために使うと決めているから、神霊は宿る場所に翡翠を選んでいるような気がします。

成長を見せる植物のように翡翠は持ち主の心を成長させて大きくするようです。これは龍という水が人の心という器にとどまるように、翡翠の聖なる力も人の心に宿って託される…。そのためには聖なる力という水を受け入れる器を広く大きくする必要があるため、心を成長させるのでしょう。

またもう一つ、心の器を大きく成長させる理由は、その聖なる力の使い方には気をつけなければならないからでしょう。翡翠に宿る力は神霊という聖なるようでもあれば、魔法使いがいかなる望みを叶えるような魔法にも似ています。霊力が宿ると考えられそうなのが心だとすれば、不思議な力を行使する場所となるのも心にあるのではないでしょうか。霊力や魔法というものは心の状態によって聖なる力となって人を助けることもできれば、恐ろしい呪いとなって人を苦しめることもある…。

翡翠は心を、その時の状態のまま大きくするという感じがします。いかなる事も叶えられる魔法や霊力を私利私欲のために使おうとする状態であれば利己的な心が形成され、良い状態で心を保っていれば優れた人格が形成されるかもしれません。翡翠が心を成長させるにあたって必ずしも人格を良くするという保証はないようで、心の成長具合は本人がどう心がけるのかと、心のままに委ねられているようです。

かつて中国で翡翠が五徳を高めると信じられたその理由も、翡翠に心を育むという力があることが関係しているのかもしれません。翡翠をもつ時に心がけていれば五徳の仁義礼智信をまとう龍のような優れた人物へと成長できそうです。翡翠の力は一見危なっかしいかもしれませんが、上に立つ立場になるにあたって心を磨きたいと純粋に想うのなら翡翠は強力な守護石となるでしょう。翡翠を見つめていて「願望の内容がその人の心を育てる」となんとなく想いました。

不思議な霊力を宿す翡翠もいつかは砕け、輝かしい黄金も溶け、ケツァールの美しい羽も折れるときが来る。そして私達の肉体も朽ち果てるときが訪れる。その時残るのは心と徳だけであるような気がします。どんな富も栄誉もあの世には持っていけない…。しばしの時間が流れる人生において崇高な心と志を求めよ…と、翡翠は語りかけてきそうです。

翡翠は人の心のような石でもあるようです。神霊の力が翡翠に宿るように、人の心にも神霊は宿ることができると想います。龍神さんに会いたければ心に想い浮かべてみましょう。龍神さんが水となって心に留まり、いつでも会うことが出来るはずです。

天然石ですが、私達人が選んでいるようでじつは天然石が、自身を手にする者を選ぶこともあるのかもしれません。天から力を授かるものとして選ばれた翡翠は時に、自身が宿す力を授けて行使させるために持ち主を選ぶこともあるようです。この人だ、と目をつけたら白羽の矢をたてて龍のような人になるよう召命(要請)するようです。翡翠の召命はまるで皇帝が臣下に下す命令のようで、翡翠から選ばれたら拒むことの出来ない脱皮が始まるでしょう。

翡翠から持ち主を選ぶ理由は、翡翠は将来を見通してその人が上に立つ者としてふさわしい人格者に育てる必要があると判断するからかもしれません。自分の心次第で人格が形成されるため必ず優れた人物になるというわけではないのでしょうけれど、上に立つものとして、またその霊力を行使するためにふさわしい心をもたせるために、何が何でも心を矯正させるような一面が翡翠にはありそうです。

人生では次の段階に進むための変化である「通過儀礼」が発生する時があります。蛇は脱皮を通過儀礼として、鯉は滝登りを通過儀礼として龍へと成長する…。人が人生における通過儀礼の一つとして、時に遭遇する辛い経験が挙げられるのではないでしょうか。辛い出来事や試練のような経験は龍のような人物になるための通過儀礼なのかもしれません。


翡翠に触れていると、この翡翠はどんな方を選ぶのか。またどんな方が翡翠を選ぶのだろうかと想い考えることがあります。龍のような優れた人物が訪れる時を待ち、そしてその時を告げる鳳凰のように翡翠も自身を持つべき人が現れる時を待ち望んでいるようです。

▷サイズ…咥えている翡翠からカニカンまで含めておよそ40センチ+アジャスターで約5センチ延長可能

▷素材…
組紐:コットン
龍頭:着色後、コーティングとしてレジンを使用しています。

▷ご注文前に必ずサイズとお取引ガイド https://soushingu333.handcrafted.jp/items/26216360 の確認をよろしくお願いいたします。

▷写真の撮り方に気を付けていますが、お使いの機種や端末・PCによっては色味に若干の差が出る場合がございます。

▷ハンドメイドです。龍頭や目、キャップの部分はボンドでしっかりと固定しておりますが、強く引っ張ったり爪や鋭利なもので引っ掛けてしまうと取れてしまう可能性がありますのでご注意ください。また組紐の部分も鋭利なものが引っかかると糸がほつれたり永くご愛用いただくにつれて経年劣化する場合がございます。

▷龍頭部分にレジンを使用しております。経年劣化したり、強く擦ると塗装が取れてしまう場合がございますのでご注意下さいませ。またレジンでお肌が被れやすい方や金属アレルギーをお持ちの方が身に付ける際は自己判断でお願いいたします。

▷天然石にまつわるパワーをご紹介しておりますが、あくまで楽しむ程度でお持ち下さいませ。

▷返品・交換とサイズ変更不可となります。

▷いかなる宗教団体にも所属しておりません。

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